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2017-02-11

「人生に生きる意味などない」と考えると楽に生きられる

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今回もナマケモノに意義がある (角川oneテーマ21)ついて書いてみる。

人生に生きる意味などない

環境が変化し易い時代にあっては、状況に対応して素早く適応できることが、最もすぐれた能力と言えるかもしれない。だから剛体のような強さではなく、しなやかで柔らかい強さが求められると思う。

本当に変化が早い。

というか早過ぎる。

私は世の中の早さについていけないので、セミリタイアして自分のペースで生きていく道を選んだ。

自分のやることに逐一意味を求めるのは一種の病気なんじゃないかと私は思う。生物学的に見れば人生に生きる意味などはない。「ああ、これで死んでも悔いはない」と思える至福の瞬間が一度でもあれば人生はそれで十分じゃないかと思うけれど、多くの人はなかなかそうは思えないのだろう。

人生に意味を求める風潮の方が煽りやすくて商売しやすいんだよね。

私は毎日ささやかだけど幸せでラッキーな人間だと思っている。

環境的にも金銭的にも自由。

自由に生きているだけでありがたいし、人生に意味などいらない。

私の周りの「いい人」とはほど遠い人たちを見ていると、みんな好き勝手なことばかりやっているが、だからといって他人に嫌われているようには見えない。「いい人」が増えているなら、社会も「いい社会」になってよさそうなものだが、現実はそんな単純なものではなさそうだ。

言われてみるとそうだ。

「いい人」が多いからといって、「いい社会」とは限らない。

麻薬で得られる快感よりももう少しマイルドな幸福感は、たいがい他人との比較から生まれる。「あいつより成功している」とか「あいつよりいい家に住んでいる」といったささいなことで人はマイルドな幸せを感じている。(中略)それにしても、いまは自分と他人を比較するためのサンプル数が極端に多い時代である。(中略)そんな不幸感を刺激して止まないところから逃げるにはどうすればいいか?処方箋は2つある。ひとつは比較から逃げること。ひとつはマイナーなことに喜びを覚えるように頭を切り替えること。

SNSもたくさんあるし、最近の子どもたちは可哀想だな。

私は多感な学生時代にSNSがなくて本当に良かったと思う。

比較から逃げることができない場合は、phaさんが言うように「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことを意識すればよい。

と言っても簡単にそれがわかるわけではないので、いろいろ経験して試行錯誤しながら日々考えて精査していくしかない。

自分は「自分は何によって一番幸せになるか」ということがわかるまで(そして実行できるまで)37年もかかってしまったけど、「やりたくないことはやらない」という至極簡単な基準を持ってから楽になった。

何十年か前は、今よりももうちょっと社会の中で価値観のバラつきが少なくて、みんなが当たり前のように結婚したり家を買ったりしていて、社会の大勢がある程度同じ理想や目標を共有できていた。そういう時代は統一された基準を使って他人と自分を比べたりしやすかったから、「勝ち組」だとか「負け犬」みたいな勝ち負けの概念を作りやすかったのはある。でも今の時代はそういうメインストリームの価値基準というものがだいぶ崩れて、いろんな人間がいろんな生き方をそれぞれするという時代に少しずつなりつつある。そうしたらいよいよ他人と自分を比べる意味はあまりないと思う。

自分の価値基準を持つと、他人と自分を比べなくなる。

脳が大きくなってしまった人間は、動物のように完全にその日暮らしの生き方はできない。だから不安から完全に逃れることもできない。(中略)ひとつの方法は不安を直視することだ。死ぬのは仕方がないとあきらめ、金がなくなったらのたれ死んでも仕方がないと思えば、少しは気が楽になるはずだ。

「金がなくなったらのたれ死んでも仕方ないと思えば気が楽になる」っていいなぁ。

老後についていろいろ調べているが、結局のところ将来どうなるかわからない。

試算や調べることはするけど、心のどこかで 「お金がなくなったらのたれ死のう」と思えば何か楽だ。

セミリタイアして個人投資家になったけど、ダメなら外に出て働けばいいと思っている。

仕事がなければ親に頼る。

親が死んで頼る人が誰もいなくなったらのたれ死のう(笑)

そう思えば心も軽くなる。

人々に物を買わせて金儲けをしたい資本主義は、金を使うことではじめて楽しくなるとの物語を流布することに余念がない。この物語に乗っかってしまうと、貧乏人は不幸にいなるほかはない。しかし、これは本当なのだろうか。金がなくとも人はそれなりに楽しんで生きていくことが可能だと私は思う。

浪費できるように頑張って稼ぐというタイプの人は、収入アップが見込めなくなったら自分で考えて方針転換すればいいだけ。

(あんまり浪費にどっぷり浸かってしまうと、抜け出す時苦労するかもしれないけど。)

大原さんのように、年収90万円でもハッピーな方もいる。

大原さんのブログを読むと、贅沢することがしんどいと感じることもあるようなので、ホント人それぞれだ。

どちらが「正しい」「正しくない」ということはない。

何が自分にとって幸せか」というのを分かっておくことが一番大事。

そこがブレてしまっていろんな情報や人に煽られることの方が問題だ。

まず、「自分がどういうプログラムで生きるのか」を具体的に知っていて、それにはお金は必要ですから、そのぶんがんばればいいのです。そのお金だったら簡単に手に入るのです。だから、人間、必死で苦しまなくても、一応、収入は入ります。何で、みんなは必死で、死にもの狂いでがんばるのかというと、どれくらいお金があればいいのかを、わかっていないのです。途中で死ぬまで、がんばるしかなくなってしまうのです。いくらお金を貯めても、それでも何か足らない気分になるのです。

なぜ必死で死にもの狂いでお金を稼ぐのか……そんな必要ないのに


私はお金がたくさんあってもたくさんなくてもどちらでも人生楽しめる。

内向的な性格のせいかもしれないが、外に出たり人と会ったりしなくても日々楽しむタイプだ。

寝たり、本読んだり、映画や海外ドラマ見たり、猫と遊んだり、(今はシーズンオフだけど)野球見たり。

たくさんのお金をかけなくても、日々楽しく生きていける。

もちろんお金がたくさんあっても楽しめる。

高級料理でも楽しめるし、B級グルメでも全然問題ない。

行ってみたい国もたくさんあるが、行けなかったとしても今の自由な生活で十分幸せなので仕方ないとも思っている。

 


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